THE INTERVIEW 001

古道再生プロジェクト 松本潤一郎
(前編)



THE INTERVIEW 001
古道再生プロジェクト【前編】

THE INTERVIEW 001
古道再生プロジェクト 松本潤一郎【前編】

THE INTERVIEW 001

古道再生プロジェクト 松本潤一郎
(前編)



今回「旅」の魅力を語るのは、西伊豆の山中に眠っていた1200年前の古道を再生させ、マウンテンバイクで走れるコースに生まれ変わらせるなど、西伊豆観光の若きオピニオンリーダーとして活躍中の松本潤一郎氏。彼の独自の発想の根源には中学生のころより続けているという「学びの旅」が大きく影響しているという。

「古道」というものをご存知だろうか?

書いて字のごとくかつて生活や交易のために使用され、その後、自動車道路の整備などによって使われなくなった古い道のことをそう呼ぶ。国内では2004年に世界文化遺産に登録された熊野古道が有名だが、実は古道は日本各地に残っている。

伊豆半島の山中、ここにも江戸時代より炭焼きの道として使用され、戦後使われなくなった道が存在する。その眠っていた古道を再生させ、マウンテンバイクで走れるコースとしてよみがえらせ、国内外の観光客を呼び込む人気アクティビティをつくりあげたのが、今回お話をうかがった株式会社BASE TRESの松本潤一郎氏だ。

近年は、山にとどまらず、地元の海でカヤックフィッシングツアーも開始し、西伊豆全域を楽しめるアウトドアアクティビティを提案し続けているが、それらアイデアの源泉となっているのが非常にユニークな松本氏のパーソナリティだ。そして、そのパーソナリティ形成に大きな影響を与えたのが、10代前半から彼が続けてきた「旅」だという。

旅のはじまり

いまでは地方創生の旗手とみなされることもある松本氏だが、実は西伊豆の出身ではない。横浜の磯子で育ち、15歳のときに家族で愛知県に引っ越し、25歳のときに単身、料理修行のために西伊豆にやってきた。その修業の目的は、10年以上続けてきた旅を継続するため。数か月からときに1年以上、海外で旅を続け、旅費がなくなったら帰国し、また次の旅の資金を働いて稼ぐ。そのようなスタイルを繰り返していたのだが、いつしか国内よりも海外にいる時間が長くなるにつれ、旅を中断しなければいけないことに疑問を抱いた。

「もういちいち日本に帰ってきたくない、と思いました(笑)。17歳から25歳ぐらいまで海外をまわってみてわかったのは、車の修理工か、日本食のシェフなら、就労ビザや永住権が取りやすい。だったら、一度国内で本格的に修行し、職能を身に着け、それを海外で活かそうと」

ずっと日本で息苦しさを感じていた松本氏。修行を終え、次の旅に出発したら、もう日本には帰ってこないかもしれないと予感していた。

彼の旅人としての素養は両親からの影響が大きい。父もまた若いころは旅人で、世界中の国々を歴訪した。作家の沢木耕太郎と同い年で、沢木がロンドンからインドを目指したのと同じ年に、父は中東からインドを目指して旅していた。

「そんな親父だったので、幼いころは絵本がわりに世界を旅した話を聞かせてくれました。『じゃあ今日はレバノン編な』みたいなノリで(笑)。なので、いつかときが来たら『自分も旅に出るのだろう』と当たり前のように思っていましたね」

その予感は的中する。ただ、その“とき”は両親が思っていたよりもかなり早かったようだ。

また、彼は幼いころより他人に強いられることに疑問を抱いた。
そのエピソードは幼稚園のころまでさかのぼる。強制的に寝かされるお昼寝の時間や、幼稚園にいるあいだは門扉を閉められ自由に外出できないことに納得がいかず、半年ほどで「中退」した。
中学にあがると、今度は、高校へと進学するのは当たり前と、何の疑いもなく敷かれたレールの上を進もうとする同級生たちに違和感を覚える。そして、自分が学校へ行く意味を模索する。勉強がしたくないわけではない。授業には出席しなかったが、図書館に入りびたり、学校内の誰よりも本を借り読み漁った。最終的に、テストだけを教室で受け、好きな地理では学年1位の成績を収めた。とにかく、極端なまでに自分を貫き通す。

そんな普遍的な教育に疑問を感じていた少年は、14歳のとき、はじめての旅に出る。
それまで修学旅行のために積立していたお金を学校に返してもらい、テントを購入。父からゆずり受けた寝袋を持ち、ヒッチハイクと青春18きっぷで全国をまわりはじめる。
14歳の少年が、見知らぬ土地で、見知らぬ人の車に乗せてもらうヒッチハイク旅。不安はなかったのだろうか?

「怖さ……はなかったですね。ただ、ひとりだったので孤独は感じました。ただ、それがすごく心地よかった」

自分がひとりの人間であるという自覚。その自身の力で内外の世界を広げていく感動。学校では見つけられなかった最高の学びは、旅のなかにあった。

日本から世界へ

16歳になると通信制の高校に通いながらすぐに働きはじめた。稼いだお金でオフロードバイクを購入すると、今度はバイクで全国をまわった。とくに気に入ったのが、高知県の宿毛(すくも)。メジャーな四万十よりも、こじんまりとして落ち着いているこの町に惹かれ、何度も訪れた。

ただ、バイクで旅をするうちに、国内を狭いと感じるようになる。

「鹿児島でさえ2日あれば着いてしまう。まだ沖縄と北海道には行ってなかったけど、これは早々に世界をまわろうと思った」

そして、17歳のとき、初の海外、ネパールのヒマラヤ山脈へと出発する。

17歳での海外旅についてはさすがの父も「ちょっと早いのでは」と苦笑いしたという。ただ、行き先がネパールと聞くと「治安、物価的にも、はじめてにうってつけ」を背中を押してくれた。


向かったのはアンナプルナ。ここは両親がまだ若いころにともに旅したトレッキングルートであり、その話を聞いて、幼い時分に「いつか絶対に行く」と決めていた場所。
この旅がまた松本氏の価値観を決定づける。

「何もかもが日本と“違う”ことに感動した」

とくに魅力を感じたのが、村々をつなぐ“道”を歩くこと。より標高の高い山の頂を目指すピークハントの険しいルートではなく、現地の人々が暮らしのなかで使う生活道を好んで歩いた。歩きながらその土地の文化や歴史を学んだ。こののち30歳のときに立ち上げる西伊豆古道再生プロジェクトへとつながる道への興味はここを原点とする。

多民族国家であるネパール。ヒマラヤの周囲にはさまざまな山岳民族が暮らしており、それぞれが独自の文化や宗教をもつ。それらひとつひとつに触れながら山の道を歩いて行った。

最初のヒマラヤ滞在は2か月。帰国して2か月後には、またネパールへと3か月出かけた。

「2回目はランタンという別のトレッキングルートを歩いた」

またロングトレッキング。彼のなかで旅の目的が明確になっていく。

その後は、インド、東南アジアをまわっていく。
旅の趣味もはっきりしはじめ、より「旅感」の強い場所をもとめていく。

「東南アジアはおもしろかったけど、ぬるかった。ネパールのときのように日本に帰ってきたときに『ほっ』と安心する気持ちがなかったんですよね」

彼がもとめていたのは観光ではなく、冒険的な要素をもった旅であった。

「だから、アジアでいちばん記憶に残っているのはアフガニスタンかも。内戦直後のときに訪れたんですが、まだ地雷源が残っていて、その犠牲になった人たちも目の当たりにした。戦争を終えたばかりの国がどういう状態なのか思いがけず知ることができた」

17歳からはじまったアジアと日本を行き来する旅は23歳のときまで続く。

南米大陸を走る

アジアをひと通り旅したのち、24歳になった松本氏はアメリカ大陸へと飛んだ。まずロサンゼルスに降り立つと、メキシコ、グアテマラ、ホンジュラスを経て、キューバへと渡る。

「僕、ギターを弾くんですけど、それもあってキューバには行ってみたかった(笑)」

このギターの趣味も筋金入りで、小5のときにエリック・クラプトンの名盤アンプラグドに感じ入り、家に置いてあった父のギターを独学で弾きはじめたという。

オートバイでひたすら南米大陸を南へと進んでいった。これが距離的にも期間的にも人生最長の旅となる。

その後、それまでのバスメインの旅から、コロンビアに入国したところでオフロードバイクを現地で購入する。

「帰国した際も、国内を旅してたんですが、あるとき北海道をバイクでキャンプしながらまわって、この自由さを海外でも味わいたい、それにはバイクしかないって思ったんです」

まるで若き医学生の時分に南米大陸を走破したエルネスト・ゲバラの『モーターサイクル南米旅行記』のよう。
ただ、1500ドルで購入したバイクは、ナンバープレートがなく、粗悪なエンジンを積み、ダートコースを走っていくうちにフレームがどんどん折れていった。

「おかげで簡易的な修理なら自分でできるようになりましたよ(笑)。また、ありがたいことに立ち寄った町ごとにバイクを修理できる場所があり、そこで現地の修理工の人と仲良くなったりもしました」

アルゼンチンとチリにまたがる風の大地、パタゴニア。強風が吹き続けるこの場所では風とケンカしないようにバイクを走らせることを覚えた。

ここでも彼が魅力を感じたのは町々とそれらをつなぐ道であった。そこにありのままの人間の暮らしをみることができたからだ。
若きエルネストは、当時貧しかった南米の国々のようすを自らの目で見てまわり、社会主義に可能性を見出し、革命家の道を歩んだ。ゲバラの2倍近い23000㎞を1年以上かけて走破した彼が目指したのは……

パタゴニアの青い氷河、ペリト・モレノ。こののち世界最南端の町と呼ばれたウシュアイアまで行き、この旅は終わりを迎える。

旅の継続だった。

まだまだ旅から学びたかった。

旅の資金を稼ぐために日本に帰国しなければいけないのが嫌でたまらなかった。

そこで、海外で就労ビザを取りやすい日本料理人としてのスキルを得るため国内で一時的に働こうと決める。
第一希望の地に選んだのは、10代の頃より魅力を感じていた高知県。まもなく宿毛に近い足摺(あしずり)の旅館より内定をもらう。が、突然向こうの都合により取り消しとなる。その際、旅館を紹介してくれた仲介業者より代替案として伊豆を提案された。

「伊豆と言っても下田や伊東などは嫌だった。もっと交通が不便なところがよかった。そういう場所に質の良い旅人がやってくることを旅を通じて知っていたんです。すると、西伊豆の旅館を紹介してくれて、ここは以前にも来たことがあり、高知と近いものを感じていたので、よし、ここで働こうと決めました」

あくまでも旅を続けるための手段として西伊豆を選択した松本氏。だが、数年後、職場の同僚から西伊豆の古道の話を聞いたことで、彼の人生は大きな変化を受け入れることになるのだった。

後編へ続く)

にしむら 西村

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