THE INTERVIEW 007

早稲田大学探検部【前編】

早稲田大学探検部【前編】

THE INTERVIEW 007

早稲田大学探検部【前編】

探し、検する(調べる)と書く「探検」は、未知なる土地に赴き、自らの足で調べることを意味する。そんな字義どおりの探検を、60年以上にわたって、世界中の秘境で実施しているのが早稲田大学探検部です。 今回のTHE INTERVIEW、ジャーナルチームは早稲田大学の探検部部室を訪問し、現在の探検事情からコロナ禍における活動まで、多岐にわたってお話をうかがってきました。 ネット社会の現代においても、「未知を拓く」ことに青春をかける若き探検家たちの物語をお届けします。

2018年11月13日

2か月半。約700km歩いたこのネパールでのキャラバンを振り返る。

まったく、カトマンズに着いて以来、思い通りに行ったことなんてあっただろうか。何ひとつ予定どおりに進まない苛立ちが、仲間うちにも亀裂を走らせ、途中で帰国する者もいた。そんな予定は未定を地で行く旅であった。

明日はもしかしたら命を失う危険性もあるかもしれない―――。

それでも、あの日、あの場所で言葉をかけられて以来、一度も鎮火しないワクワクを信じて、ここまで来た。その結末を見ないで“また”夢終えることだけは絶対にしたくない。そんな啖呵を先ほど先輩たちの前でも切ってしまった。でも、本心だから仕方ない。

明日の朝、この旅の最終目的、ヒマラヤの未踏峰に挑む。


西北ネパール、チャワタン
ベースキャンプにて


早稲田大学探検部

今回、THE INTERVEIWが訪れたのは早稲田大学探検部。2021年12月現在、部のまとめ役である幹事長を務める田口慧氏に話をうかがった。2018年に冒頭の「1000kmのヒマラヤ隊」に1年生ながら参加した、現在4年生。幼いころに関野吉晴のグレートジャーニーを見て探検に憧れ、自分も医師をしながら旅をしたいと医学部を志したのち、早稲田大学に入学した。

早稲田大学探検部の現部室でインタビューに応じてくれた田口氏。部屋のなかにはこれまでの探検の数々で使用されてきた装備が所狭しと置かれていた。

このインタビューを実施するまで、早稲田大学探検部は、未踏峰登頂など大人顔負けの探検を成功させたり、著名なOBを幾人も排出したり、名門というイメージをもっていた。きっとそこには探検エリートをつくりだす伝統とノウハウがあるのだろうと。ところが、これは誤解であった。

「部の歴史としては、創部が1959年なので、60年ちょっとあるんですけど、明確な部訓や、先輩から後輩に代々引き継がれているものがあるわけではないんです。ひとつだけ、『未知を拓け』というスローガンがあって、ただそれも個々の部員がどんなテーマを通じてするか、そもそもやるかやらないか含めて、完全に自由です」

そこは、強豪運動部のようにチームで大きなことを成し遂げたい者たちが集まる場ではなかった。個々が、自分でやりたいテーマを見つけて、それを探検によって明かしていく、強すぎる個性の集団。

毎週部会を開催しており、海外遠征の計画など重要な議題はこの場で話される。ちなみに、海外遠征への参加条件はこの部会に出席することが絶対である。

だから、部のメインイベントである海外遠征も、そのときのリーダー(発起人)によってその内容が大きく変わってきた。海外に新洞調査※に行く世代がいたかと思えば、次の世代は沢登りのスキルが強かったり。未踏峰に挑む世代がいたり。

※未調査の洞窟

「でも、そのスキルが世代を超えないんです。すごいスキルを持った部員たちがいても、その人たちが卒業してしまうと、それが失われてしまう。これは全国の大学探検部の問題でもあると思うんですけど、継承がない」

基本的な技能については、春に実施しているサバイバルオリエンテーリング(新歓合宿)、週イチの部会、秋に行っている救助講習、読図訓練などで習得できる。ただ、それ“以上”については、テーマを実現・見つけるために大学の図書館にて古い資料を調べたり、他大学の研究室に教えを請うたり、すべて自己流だったと田口氏は言う。

これには2つ理由がある。ひとつが、早大探検部が個性を大事にしていること。自分のテーマを達成するために、他の部員と共闘はしても、引き継ぐことはしない。そしてもうひとつが、OBの不在。山岳系のサークルと違い、大学を卒業したのちも探検をつづける(つづけられる)者がほぼいない。仕事をしながら長期休暇を取ることも難しければ、探検を職業とすることもこの国では非常に狭き門なのだ。数少ないOBをつづけられているプロ探検家たちは、当然それぞれの本業で忙しい。

だからこそ、探検部員は、その限られた青春に、全力で臨むのかもしれない。

近年では、2017年に「カムチャッカ遠征」と題して、ロシア・カムチャッカ半島の未踏峰に挑み、登頂。その山に「ワセダ山」と命名することをロシア地理協会に認められたり、ニュースにもなる探検を成功させた。

冒頭のヒマラヤ遠征は、カムチャッカ遠征を成功させた探検部が翌年に挑んだもので、早稲田大学に入学したばかりの田口氏がはじめて参加した海外遠征でもあった。


最初で最後の海外遠征

2018年のヒマラヤ遠征に参加したのは10名だった。それぞれが内に異なる目的を持ち、ヒマラヤの未踏峰登頂という共通の目標を達成すべく集まった。ある者は世界最後の秘境と言われるドルポの民族調査を目指し。また別の者はこの探検の一部始終を撮影してドキュメンタリー映画にしたく。

「私も道中にある未知の山岳氷河と現地の地質調査という自分だけのテーマをもって参加しました」

ただ山に登るだけなら山岳部でいい。探検部にしかできないことがしたかった。未踏峰に挑む“だけ”にせず、キャラバンというスタイルを取り、カトマンズから1000kmもの道のりを踏破することに決めたのは、それらさまざまな探検を実現するためであった。

ところが、そんなバラバラの目的を持ったメンバーたちを、ネパールに入国して早々に苦難が襲う。

はじまりの地にして最大の難所のひとつとなったネパールの首都カトマンズ。現地での交渉もこの旅の醍醐味となるはずだったのだが……。

まず、トレッキングの許可料(入域料)やシェルパなどのスタッフについては、現地に着いてから交渉・手配する計画だったのだが、その交渉の席で全員で持ち寄った資金ではまったく足りないことが判明した。さらに、メンバー内で食中毒が発生し、遠征のための食料の調達もできない状態となる。

このまま何もしないで日本に帰国する。そんな空気が現実味を帯びてきた―――。

このいきなりの危機を救ったのは、前年のカムチャッカ遠征の際のリーダー、井上氏だった。資金がどうあっても足りないことをいち早く飲み込むと、当初予定していた1000kmのプランを早々に捨てた。結果、キャラバンの行程は700kmと短縮されたが、持ち前のネゴシエーション力を発揮し、現地スタッフを集めきり、キャラバンを形成できる段取りをつけた。それでも、首都カトマンズを出発できたときには、すでに1か月弱もの時間が経ってしまっていた。

キャラバンを支えたのは馬たち。現地で調達した食料や隊員らの荷物を背負い厳しい峠道をともに旅してくれた。


苦難はさらにつづく。ようやく予定していたルートを進みはじめるものの、慣れない環境の影響か、高熱を伴う病が隊内に蔓延する。ひとりが完治するまでのあいだに、ほかの隊員にうつし、完治した隊員も再び感染する。病とともに行軍するような過酷な状況がつづいた。

この際、田口氏も罹患し39℃の高熱を出す。だが、彼はそれがなるべく表に出ないように気丈にふるまった。

「ぶっちゃけ、こわかったんです。1年生で、先輩たちから『オマエ、おりろ(リタイアしろ)』って言われたら、何も言えないですからね」

彼のその執念は自ら定めたテーマの影響も大きかった。1000kmの道程のあいだに現地の地質がどのように変化するのか調査することが目的だったのだが、それを成し遂げるには最終目的地までたどり着かなければ意味がなかったのだ。

その後も田口氏は先輩たちに食らいつき、つづいて隊を苦しめた高山病も克服。そして、予定していたほぼすべての地点で、地質調査に必要な岩石のサンプルを採集し、個人の目的を達成する。ハプニングつづきだったキャラバンで、それができたのは彼ひとりだけであった。


そうしてたどり着いた、西北ネパール、チャワタンに位置する未踏峰。実は当初目指していたのは6000m級の山だったが、度重なるタイムロスによりヒマラヤに冬が訪れてしまい、そちらは断念せざるを得なかった。代わって目標となったのが別の5000m級の未踏峰だった。

最終のベースキャンプは、西北ネパールの奥地、チャワタンの河原に設置された。ここから未踏峰に挑む。日本を出発してから80日が経っていた。

そのアタック前夜。先輩のひとりが残った7人にそれぞれの登山理由を強い口調で訊いてきた。彼は未踏峰には挑まないと言うのだ。実は、直前で天候が急変し、十分な偵察ができていなかった。死亡する可能性もあったのだ。

その問いに対して田口氏は「行きたい」と答えた。

1年前は医学部に入学するため必死に勉強していた自分。それがいまは探検に夢中になって命すら懸けてしまっている。ヒマラヤの地質調査という個人の目的は果たしたが、未踏峰に近づくほどにワクワクは強まっていた。

また、冷静に状況が見えているとも思っていた。残った8人の隊員は、一見満身創痍だが、全員が高所順応を終え、連日のトレッキングで体力に余裕もでき、何より結束が固かった。このキャラバンのなかでベストな状態で挑める。問題は時間的な都合で一度しか挑戦できないことぐらいだろうか。だが、きっとカムチャッカのときのように成功する。

そして、次の日の朝。下山するのに必要な時間も考慮し、登頂のタイムリミットは12時に決まった。

そのタイムリミットは無情にも頂上まであと僅かのところでおとずれた。


「敗退が決まったときは、さすがに絶望的な気持ちでした。
1年から大学を休学し、3か月も旅してここまで来たのに、何も成し遂げられずに、帰るんだって」

失意のうちに、それまで必死に登ってきた雪道を下っていくと、その道のりが行きの何倍もきつく、長く感じられた。

「その苦しい道の途中で、自分たちが勢いでここまで来たことを知りました。準備がぜんぜん足りなかった。負けるべくして負けたんだって気づいたんです」

準備、訓練、経験不足。乗り越えてきたつもりでいて、きっちり清算させられた。今回の敗北を、無事に麓に戻るまでに、全員が受け入れていた。そして湧いてきたのは「また、来ればいい」という共通の想いだったという。

「誰かがふと、『またちゃんと訓練して来いよ』ってヒマラヤに言われた気がするって言ったら、みんなも、自分も同じように言われた気がしたって言って。

だから、いつか、もっと強くなって、ここに帰ってこようって」

未踏峰登頂はならなかった。だが、この数か月のキャラバンは探検部員たちの多くの未知を明らかにした。「探検」は成功だった。 写真:小野寛志

旅の終わりは次の旅のはじまりだった。帰国後、田口氏は、道中にあったナカタン氷河の人類初調査をテーマに、再びヒマラヤに挑む探検計画書を書き上げた。その計画は登山家・谷口けい氏の冒険支援活動に選ばれ、1年間の十分な訓練期間をおいて、2020年に実施予定だった。

ところが、2020年以降、早稲田大学探検部によって海外遠征は一度も行われていない。探検部60年の歴史のなかで「もっとも致命的」と言っても過言ではない、コロナ禍が到来したのだった。

(後編へつづく)

にしむら 西村

INTERVEIW