MIKAMI'S REPORT Vol.5

INTERNATIONAL GS TROPHY 2008

「 サハラよ、さらば 」

最終話(全5話)


MIKAMI’S REPORT 005

MIKAMI’S REPORT Vol.5

INTERNATIONAL GS TROPHY 2008

「 サハラよ、さらば 」

最終話(全5話)


当コラムについてSJ編集長からのちょっとしたご案内

ボクがオフロードバイク/レースの世界に足を踏み込むきっかけとなった、ある雑誌があった。FRM(フリーライドマガジン)。既存の商業誌とは一線を画し、自らの体験を通した自身の言葉で表現されるその記事一つ一つが、圧倒的な存在感を放つ雑誌だった。しかも驚くことに、ほぼ一人でこの出版を続けてきたのだ。編集長、三上勝久。今年、ついにその雑誌を休刊させることになった彼に、入れ替わるようにスタートした当ジャーナルへの参画をお願いした。まずは、その伝説的な雑誌の過去記事を紹介していこうと思う。上質なヴィンテージが時を経て魅力をますように、オフロードバイクのことなど知らない人にとっても、その冒険的なエッセンスを感じて欲しい。

モーターサイクルで行く冒険の旅に憧れていたり、あるいはすでに実行しているライダーなら、きっと知っているだろうイベントの1つが「BMW MOTORRAD INTERNATIONAL GS TROPHY」だ。ここでは、全4回にわたり、その第1回インターナショナルGSトロフィ・アフリカ大会の模様を元FREERIDE Magazine編集長の三上勝久がレポートしていく。今回は最終回(全5回)。

砂漠からフェシフェシへ

道は砂丘が広がるエリアから、時折ブッシュの見える砂漠に変わっていった。同時に「フェシフェシ」と呼ばれる、目の非常に細かい砂……土の粉といったほうがいいかもしれない路面になっていった。メキシコのバハカリフォルニアでは「シルト」と呼ばれるのと同じものだ。

これがとても走りにくい。しかも、ある程度速度が出るルートでいきなりフェシフェシの路面になるもんだから、手強いのだ。フェシフェシに突っ込んで、反射的にアクセルを戻すと十中八九つんのめって前転する。誰かが前転するたびに、道の彼方で白い煙がボワっと爆発したように広がるのですぐにわかる。自分が転倒すると笑っちゃられないが、ヒトが転倒しているのを見るのは面白い。

平野さんも転倒したそうだ。「平野さんのヘルメット、シールドタイプじゃないすか。コケて起き上がった平野さんのシールドのなかだけ煙で真っ白で、見えない見えないって手を振ってて爆笑だった」とは松井さんの弁。やっぱり平野さんは最高だ。

フェシフェシの道を行く。油断すると、あっという間に転倒する難しい道だ

リア荷重で、なるべくハンドルをフリーにしてアクセルを開け気味でコントロールする。どうやったらうまく走れるんだろう? といろいろ試しながら走っていると、道ばたをモペッドが走っているのを発見した。ええええ?それまでも、現地のチュニジア人が村の中をモペッドで走っているのは何度も見ていた……というか、チュニジアではプジョーのトラックとモペッドが国民車のようで、異様に多いのだ。

だけど、僕らでさえ苦労しているフェシフェシの道を走っていたモペッドはちょっとカスタムされたモデルのようだった。しばらく走った道の出口にあるカフェでとまっていたら、やがってそのモペッドの連中がやってきた。

彼らはフランス人で、モペッドを使った「レイド・チュニジア」というラリーの真っ最中だったのだ。リアキャリアにスペアのガソリンタンクを縛り付け、オフロードタイヤを履かせたモペッドは文句なしに恰好いい。考えてみれば、冒険の道具としてみて中古のモペッドはそのカスタム費用などを考えても凄く安上がりなはずだ。チュニスの港でも、トラックに山ほどモペッドを積んでいるイタリアのクルマを見かけたが、こうして遊んでいるのだろう、遊びとは言ってもスケールは大きいが……じつに素晴らしい! しばらく休憩したあと、彼らは足でペダルをグルグル回しながら、フェシフェシの道の、地平線の彼方へと消えていった。

その日のフィニッシュは、砂漠のなかのキャンプだったのだが、日本ふうに言えばバンガローが用意されている豪華なものだった。かなり難しい、柔らかい砂の道を30分ほど走って到着したザフランのキャンプは、土壁にわらぶき屋根というエキゾチックな建物が並ぶ素敵な場所だった。各小屋のベッドには、きちんとシャンプーやタオルなどのアメニティも用意されていてじつに素晴らしい。さらに嬉しかったのは、3日ぶりにシャワーが浴びられるってこと! シャワーは水圧も高く、暖かくて実に気持ちよかった。本当に湯が体に染みこむ感じで、いかに自分が乾燥した場所にいたのかってことを実感する。しかし、この気持ちいい宿に泊まるってことは、つまり砂漠とももうお別れだってことでもあった。

夜は盛大なパーティとなった。

現地のトゥアレグ族が目の前で踊る中、ビールと豪勢な食事。1泊いくらくらいなんだろう? とスタッフに聞いたら、日本円で6、7000円くらいじゃないかってこと。日本で言えばビジネスホテルに泊まるのがやっとの予算で、これだけ充実した思いができるなら最高だ。

走って、飲んで、笑って、食べて……最高の思いでぐっすり眠った。久々のベッドはやっぱり、最高だった。おかげで、このキャンプに到着したときに表に干しておいたテントのフライシートをしまい忘れてしまって、朝またビショビショになってるのをしまわざるを得ないことになってしまったけど……。

この数日間で、僕たちの顔は変わったと思う。当初の砂漠に対してもっていた恐れみたいなものは、きれいになくなっていたと思う。まるで、フレームのステップまわりが砂で削られて傷つきながらも輝いていくように、僕らも砂で磨かれていったはずだ。ザフランのキャンプを出て、ドライレイクを走っている僕らはだから、とても解放された気分だった。

ベペが「チュニジアのモニュメントバレー」と呼ぶ、奇岩がところどころに突き出たドライレイクは面白い眺めだった。そこで、またレースが開催されることになった。え? と、ちょっと思った。なにしろ、飛ばしに飛ばせるフラットな土漠なのだ。だけど、ところどころに深い溝やギャップがあって、どう考えても危ない。ジミーが「気をつけろよ」とみんなに言いながら走り去っていく。

リレー方式で競われることになった。スタッフが地面から突き出た岩の上にたっているポイントを2箇所回って帰ってくる。最初の1周は、チームメンバー全員でサイティングラップを行い、まず最初に3人が1周してくる。全員が戻ってきたら、残りのメンバーがもう1周する。日本チームは5人になっているから、最初3人、次に2人だ。

日本チームが最初のスタートとなった。まず、最初に加地さんと原さん、それに平野さんが出た。一直線に目印の岩のポイントに向かっていく。すると、途中で原さんのリアが大きく跳ね上げられた。「ステップから完全に足離れてましたよ。バイクの腹が見えましたよ、原さんが見えずに」(平野さん)というくらい、大きく跳ね上げられた。



次には、僕がやった。同じ場所で同じように跳ね上げられた。それでもまあまあの結果だったとは思うのだが、日本チームの後に走った4カ国は、僕らが跳ね上げられたラインをきれいに避けて、スムーズに周回してきた。当然と言えば当然だが、日本人はマジメだから最短距離をまっすぐ走っちゃうんだよなあ(笑)。

ドライレイクを出た僕らは、ケブリの街で昼食をとることになった。街で食事とは言っても、道ばたでいつもの缶詰だ。ロバが引く馬車、プジョーのトラック、それにモペッドが行き交う街の道ばたで、みんなで食事をとる。

その場所はバス停だったみたいで、時々女子高生が集まってきて、金髪の美少年に見えるブラッドのまわりに群がっている。英語を話す子もときどきいるようで、少し会話しては「キャー」とか言ってやがる(笑)。

日射しは強かったけど、木陰は涼しい。僕らはまったりとチュニジアの午後を楽しんでいた。「食べるか?」と言って、ライアンがデカいコーンチップの袋を僕の所においていった。どうやら、カミオンから丸ごともってきたらしい。食べ物や、飲み物を確保する生活力は、アメリカ人を含む欧米人は本当に強いよなあ、とこの期間中僕はずっと感じていた。たとえば、水だ。今回、砂漠のなかでの水は、500mlのペットボトルを1人1日6本と決められていた。それを、朝、昼、夜と2本づつ配るってアナウンスされていたから、それ以外の時間に休憩時間があっても、僕たち日本人はしかたなくキャメルバッグのぬるい水を飲んでいた。だけど、気がついたらアメリカ人たちはカミオンのモノ入れのなかに手を突っ込んで、ドンドンフレッシュな水を出して飲んでいるのだ。なるほどねえ。僕も途中から、試しにカミオンに乗ってるスタッフに「水ください」って言ったら、いつでも水をくれるようになった。なんだかルール違反みたいな気もしたけど、どうやら総量には余裕があるらしく、気軽に新しいのをくれる。最後は遠慮してるヤツが干からびて死んじゃうんだろうなあ、日本人ももっと図々しくならないと、としみじみ思った経験だった。

日も傾いてきた頃、先頭を走っていたカミオンが巨大な廃墟の方向へと曲がっていった。今日はずいぶんボロいところに泊まるんだなあ。砂煙ごしに見ていたら、そんな風に思ったのだが、近づいてみたら、その廃墟が見覚えのある風景であることに気づいた。そう、タトゥイーンだ! 1978年に公開された、スターウオーズのセットだったのである。

スターウオーズのセット+ジミー・ルイス


それがチュニジアにあるってことは知識として知っていたけど、まさか来ることになるとは思わなかった。バイクでの旅で、観光地によることはあんまりない僕だけど、でもこのときばかりは嬉しかった。なにしろ、大好きな映画なのだ。北海道の麓郷にある「北の国から」のセット跡地は、リッパな観光地となっているが、ここは本当にただの「跡地」だった。まあ、周囲は砂丘だらけで人家もないからかもしれないが、それだけに映画の雰囲気そのままだった。ところどころ壊れて風化してはいるが、セットは映画そのままだった。数人の土産物売りがいたけど、それだけで店もなければなにもない。

しばらくそこにいると、ランクルに乗った観光客の一団がやってきた。ウクライナから来たそうだ。記念写真のシャッターを押してあげた。

そのすぐ横で、最後のスキルテストが行われることになった。

チュニジアは、じつに素晴らしい。許可をとっているのかとっていないのかは知らないし、下見はしているのだろうけど「じゃあここでレースやろうぜ」って決めればレースできちゃうのだ。しかも30台のバイクだ。日本にはなかなか、そんな場所はない。

セットのすぐ横にある砂丘に、5カ国の巨大な国旗が間を開けてたてられていた。1周、500mくらいだろうか? 砂丘を上って、また下りてくるコースだ。これを、各チームで2周してタイムを競うことになった。試走しているスタッフの走りを見ていると、最初の砂丘の頂点あたりが凄く柔らかそうだ。そこで、僕らは作戦を話し合った。まず最初に加地さん、原さん、平野さんが上る。上りきったところで、僕と松井さんが来るのを待つ。もし埋まったら助け合う。それを2回繰り返そう、ということになった。日本チームは今回、3番目のスタートだ。

最初にスタートしたスペインチームは、盛大に埋まりまくっていた。こりゃあ、結構大変だ。いよいよ僕たちの番だ。1周目。無難に通過できた。バッチリだ。しかし2周目に僕が前に近づきすぎて減速、スタックしてしまった。ヤバい! と思ったが、走り終えていたスペインチームが全員でてきて「ムーチョガス!」って叫びながら全員で押し出してくれたのだ。なんていい連中なんだ!

アクセルを戻しただけでフロントが埋まり、ライダーは放り出される。深く、柔らかい砂


そのあと、一気にフィニッシュ……のはずだったが、僕が追い抜いてしまった松井さんが今度は下りで運悪く深みにハマってスタック。結果はそういうわけでパっとしない4位(再下位のイタリアチームは完走できず失格)だったが、そんなのどうでもよかった。とにかく、楽しかったのだ。最高に。

これで終わりだっていうのは、みんなわかっていた。もちろん、この旅はまだ続く。これから500km以上走ってチュニスに戻り、そしてイタリアに戻って解散する。だから、まだまだみんなと一緒だけど、でも砂漠での旅はもう終わりだってことは、みんなわかっていた。

レースが終わって、砂丘の前で原さんが記念写真を撮ろうって言って、日本チームとスペインチームが集まった。最初はそれだけのつもりだったんだけど、あっという間にオレも! オレも!って集まってきて、やがてはスタッフも含めて全員が集まってしまった。カメラをかまえていた原さんもびっくりだけど、これは最高だった。みんな笑顔だった。クルマに乗っていた山田さんもムーチョガスもやってきた。僕らは、この数日間で1つの大きなファミリーになっていた。そう、僕たちは会話を交わさずとも、目で話し合えるような、家族のようなチームになっていた。みんな仲間だぜ! そんな想いが、砂漠のなかで僕たちを包んでいた。

じつは出発前、僕はこのイベントを一歩引いた目で見ていた。

いくらバイクからなにからなにまでBMWもちという素晴らしい機会であっても、なにしろ平日を含む2週間という時間を費やすのである。これまで、BAJA1000などにはそれ以上の時間を費やしてきたけど、それらは自分で狙いを定め、調整してきて目指してきたものだ。だけど、ツーリングなのか、競技なのか中身の判然としないイベント。しかもバイクはレースバイクではない。一緒に走る連中のレベルもわからない。ひょっとすると、2週間、気の合わないヤツらに気を遣って過ごす最低な2週間になるかも、なんて気分もあったのだ。

だけど、一緒に走った(走らせてもらった)日本人はもちろん、どの国のどのライダーも、みんな最高のヤツだった。レースでも一緒に走ったライダーたちと共感を得ることは多いけど、ここまで親密になることはないだろう。

バイク乗りだからいいヤツ、バイク乗りに悪いヤツはいない、なんて言葉が幼稚に感じられてしまう今の日本だけど、少なくともこのGSトロフィではその言葉が生きていた。来てる連中は、みんな最高のやつばっかりだった。

ベペが最後に言った。「5カ国から集まったチームだけど、最後には1つの大きなチームになれた」ねって。

旅はやっぱり素晴らしい。そんなことを想いながら、僕らはミラノへの帰途についた。
旅の余韻をかみしめながら、名残を惜しみながら。

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