MIKAMI'S REPORT 004

FLY WITH MOTORCYCLE

第1話

MIKAMI’S REPORT 004-1

SCORE BAJA1000。1967年から開催されている伝統的なレースで、世界でも数少なくなった公道レースの1つ。アメリカ・サンディエゴの南にあるメキシコ・バハカリフォルニア半島の北部の町、エンセナダから、南端近くにあるリゾートタウン、ラパスまでの1000マイル(1600km)をより速く走れば勝ち、というシンプルなレースだ。通常は2、3人のライダーと数人のサポートでチームを組み、途中で繰り返し交代しながらゴールを目指す。また、年によっては、半島北部だけで周回するコースで開催されることもある。このレースの2011年大会に、仲間が集まって参戦することになった。エンセナダからスタートし、北部を周回してエンセナダに戻る周回コースのレースである。距離は710マイル(約1140km)。ライダーは女性1名、男性3名。僕はこのチームのサポートと取材で同行することになった。

フリーライドマガジンVol.39に掲載したこのチームのドキュメンタリーを、今回はお伝えして行く。 (全4話)

MIKAMI’S REPORT 004

FLY WITH MOTORCYCLE

第1話

恋人と別れて 「私なんて、砂漠でどうにでもなってしまえ」そう思ったひとりの女性が、SCORE BAJA1000に挑むことになった。

世界で最も過酷なスプリントレースと言われる、メキシコでの公道レースだ。彼女を誘ったのは、会社の先輩である杉山。この2人に加わったのが、オフロード経験が豊富で、BAJAでのツーリング経験もあるタケさん。彼ら3人の参戦のため、会社の同僚であるイマイと、アメリカ支社に務めるノダもやってきて、「デザート・サンダー・レーシング」の2001 BAJA1000が始まった。結果はリタイアに終わった挑戦だったが、リタイアに至るまでにはじつに様々なストーリーがあった。このチームに同行取材のはずが、いつしかチームの一員となっていた僕の立場から、彼らのBAJA 1000を語ろう。話はレースマイル210、スタートライダーのシオノが66マイル、セカンドライダーのタケさんが150マイル走ってきて、杉山に交代したところから始まる。

1993年、ボレゴ。

 話は1993年に戻る。メキシコ・バハカリフォルニア半島北東部に位置するボレゴ周辺。僕、宮崎雄司、西田充志の3人はバハカリフォルニア半島北東端の都市、メヒカリからスタートしたBAJA 1000に参戦していた。メヒカリからメヒカリへと戻る、いわゆる「ループ」(周回コース)のBAJA1000だ。ボレゴの北で、僕らはリタイアした。サンフェリーペから250kmほどのセクションを走ってきた西田から、僕へと変わるポイントだった。ヘルメットをかぶり、給油を済ませたあとに西田がこう言った。「オイル、漏れてるんですよ」。
 「え、どこから?」と俺。
 「あ、いや、エンジンかけるとわかります」
 XR600Rのキックを踏むと、エンジンはあっさりとかかった。アクセルを空ぶかししてみる。すると、ドライブスプロケットの横から、小指ほどの太さで勢い良くオイルがほとばしり出た。
 「なんだよこれ!」
 「途中でチェーンが外れて、ヒットしたみたいで……あちこちでオイルもらいながら来ました」
 「これは漏れてるって言わねーよ! 壊れてるっていうんだよ!」
 このままじゃ走り出せない。僕らは、近くのピットにアルミの溶接ができるところがないか、聞いて回った。しかし、残念ながら、見つからない。もう夜になっていた。そして、いつしか、バハカリフォルニアには珍しく小雨が降り始めた。

なんとかしたい、どうにもできない。僕は最後までブーツを脱がなかったけど、結論は決まっていた。このままじゃ走り出せない。

 結局、そこでリタイアになった。僕らは、モーターホームのなかで、砂まみれのまま、ふて寝した。この年、僕が走ったのは、ボレゴからサンフェリーペまでの40マイルほどだけだった。

僕にとって2回目のBAJA1000は、どうにも後味の悪いマシントラブルで終わった。

グラミスで

 レースをリタイアした翌々日、俺たちはせっかくだからすぐそこにあるグラミスに行こうって話になった。映画「オン・エニイ・サンデー」でも有名な、カリフォルニア南部の砂丘地帯だ。行くなら、せっかくならバイクは1台でも多いほうがいい。みんなで走りまわったほうが楽しいじゃないか。なので壊れたXR600Rを直そうと、ダメ元で、途中のペップボーイズ(アメリカのオートバックスみたいな店だ)で、クイックメタルというエポキシ系のアルミ補修材を買ってみた。

 クランクケースの穴はオイルラインのすぐそばだったので、エンジンの潤滑経路を塞いでやしまわないか不安だったが、案外簡単に直せてしまった。しかし、バイクの故障が直ったとき、本当の後悔がやってきた。ガツンとデカいハンマーでアタマを叩かれるくらいのデカい後悔だった。

 この手の修理剤はBAJAでの必需品だ。きっと、ボレゴで探せば誰かもっていたに違いない。なんで今さら直すなら、どうしてあのときやらなかったんだろう。溶接できないなら、なんでこうして直そうとしなかったんだろう。

 そうは言っても、すべては終わっていた。僕をあざ笑うかのように、グラミスにも雨が降った。カチカチになった砂丘で、僕は深い後悔に沈んだ。今から19年前のことだ。

チーム

 さて、イマに戻ろう。これから書く話は、正直言って、あまり面白い話じゃないかもしれない。なにより、いちばん面白くないのは、今回リタイアしてしまった3人のライダーたちだ。

 彼らなりに必死にがんばったのに、客観的に、時に冷徹に彼らのチャレンジの模様を書かないといけない。

 リタイアには、それぞれの言い分があるし、言って欲しくない、みんなに知られたくないことだってある。それをこうして、白日の下にさらけだしてしまうことを許してくれた3人のライダーにまず、最初に礼を言っておきたい。あなたたちの失敗は、きっと、後続の誰かのためになる。読んでムカっとすることもあるかもしれないが、許して欲しい。

 さて、では、2011年、ゼッケン266X・チーム・デザートサンダーレーシングのドキュメンタリーを書いていこう。

シオノ、タケさんからマシンを受け継いでボレゴをスタートしていく杉山。このあと、壮絶な夜が彼を待っていた

砂漠で

 エンセナダのスタートを、シオノがスタートしていったのは朝7時過ぎのこと。それから15時間が経過して、時間は午後10時を回ろうとしているころのことだった。午後4時近くにボレゴを走り去っていった杉山のSPOTから、僕のiPhoneにメッセージが入った。

 SPOTとは、GPSを使って、自分の位置とメッセージを伝える事ができる小型のGPS機器だ。5つあるボタンのうち、1つは自分の位置を定期的に送信する機能をオンにするボタン。もう1つは、生命の危機などの場合に、登録した連絡先に情報を送る、本当の意味でのSOSボタン。それ以外の3つには、自分で機能を設定できる。

 僕は、残った3つのボタンのうちの1つめに、「順調です」というメッセージを、2つめに「遅れているが大丈夫です」というメッセージをプリセットした。そして、フタをめくらないと押せないーーつまり、押し間違いはありえないーーヘルプボタンに「もう走れません」というメッセージをプリセットした。シオノ、杉山、タケさん、3人のライダーに、それぞれのボタンを押す意味を説明した。ボタンを押すと、プリセットされたメッセージとともに、ライダーのいる座標位置をSPOTが携帯電話に送ってくる仕組みだ。BAJA1000では、結構多くのライダーが使用している、実績のある製品だ。

 杉山のSPOTから来たメッセージを見て、僕は目を疑った。

なぜなら、それはヘルプボタンを押したときのメッセージ……「もう走れません」というメッセージだったからだ。

(第2話へ続く)

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