THE INTERVIEW 003
砂漠の鉄人 菅原義正
《前編》

砂漠の鉄人(前編)

今回のインタビューは御年80歳を超えて、未だ現役選手としてサハラ砂漠で行われるクロスカントリーラリー「Africa Eco Race」に4輪バギーで参戦を続ける、砂漠の鉄人こと菅原義正氏をご紹介したい。砂漠のF1レースと呼ばれる「ダカールラリー」において、日野トラックのファクトリードライバーとして長年参戦を続け、2つの世界ギネス記録まで有する、まさに日本が誇るレジェンドドライバーだ。今回のインタビュアーは、世界のオフロードシーンを知り尽くした元rider編集長の三上勝久が担当。菅原氏には、その生い立ちから、コロナで混迷する世界ラリーシーンにおける今後の参戦計画まで、じっくりと語っていただいた。

THE INTERVIEW 003
砂漠の鉄人 菅原義正
《前編》

北海道、小樽出身

中層マンションの最上階にある、陽のよく差し込む菅原の部屋は、まるでなにかのサロンのようにすっきりと片付けられていて、生活の場としての印象はほぼない。

家具の上には多くのトロフィや写真、海外から持ち帰られたのだろう調度品が並んでいる。

その一角には執務机があって、パソコンのモニターが立っている。その横に長いテーブルが設置されている。テーブルの横は大きな窓で青空がよく見える。やはりガラス越しに見える隣の部屋は作業場となっているようで、工具類が置かれているのが見える。

太平洋戦争終戦の4年前、1941年(昭和16年)に菅原義正は生まれた。出身は北海道有数の商業都市、小樽である。炭鉱夫から市電の運転手や公務員として働き、戦後に石鹸工場を開いた父のもとで、菅原は自転車、モーターサイクル、車とすべての乗り物に興味を持ち始める。

画像提供 日野自動車(株) 
画像提供 日野自動車(株) 

初レースは1965年

「北海道から東京の拓殖大学に進学したんだ。18歳くらいだったかな。この大学は宮家と繋がりが深くて、当時は学生が書生として宮家に住まわせてもらい、運転手を勤めるなんてことをしていたんだ。2年間。大学では自動車部に所属していて、計算ラリーに出ていた。自分で平均速度を計算して指示された時間でチェックポイントを通過するというラリーです。

公式記録としての初戦は、JAF(日本自動車連盟)公認、モーターファン誌の主催するもので、オープン直前の船橋サーキット(千葉県船橋市に1965~1967年にかけて存在したサーキット)を走り、そのあとラリー形式で福島県の安達太良山付近に向かい、安達太良ではヒルクライムのタイムを競うというもの。

三菱ファクトリーのドライバーである望月修や寺田洋次郎(*1)ら、錚々たる面々が出場していたよね。ファクトリーチームはコースに合わせたタイヤやサスペンションパーツを用意していたんだけど、僕らはそんな知識がないのでタイヤ一組だけだった。

僕らはプライベートで、車の性能には限界があったので、最高速度じゃなく頭で競えるラリー部門での上位を狙っていたんだけど、特殊なルールだったせいもあってうまくいかなかった。でも、ヒルクライムではなんと最初1位になってね。そしたら、参加していた他のファクトリードライバーが計測ミスじゃないかってクレームをつけてやり直し。結果2位だったのかな。総合では4位だった」

1965年は高度成長期のピークではあったが、自動車を所有するというのは庶民にとってはまだ夢の時代だった。全国の自動車保有台数はおよそ700万台で、現在(約8200万台)の10%にも満たない数である。そんな時代に大学に進学し、自動車を所有し、レースまでしていた菅原はかなり裕福だったのではないだろうか。

理論的に考えて仕事を選ぶ

「車は高かったよね。上野にオースチンを売りにきていた人がいたんだけど、それを売ったお金で家を1軒建ててたくらいだからね。当時の日本では、機械類ってみんな高かったんだ。カメラ、自転車とかは金持ちしか持てなかった。ライカ1台家一軒って感じだね。スクーターはお坊さんやお医者さんくらいしか乗ってなかった。

僕は金融業をしていてね。手形の割引ってわかるかな。自分でそういう会社をやっていたんだ。その収入でレースができていた感じだね。

大学は経済学部だったんだけど、そこで昔の論文を読んで、金利というのはすごいな、と。人は普通365日働けないけれども、金利は年利だから365日収入がある。しかも銀行は午後3時までだし、仕事もそんなに忙しいわけじゃないからレースのための時間も取れる。これはいいな、とね。

大学を卒業してからは国内の自動車レースをずっとやっていた。ホンダS600からS1300、ミニクーパーなどに乗ってね(全日本レーシングドライバー選手権シリーズほか、1965~81年にかけて国内59レースに参加)。

でも、富士スピードウエイでのあるレースでね、一方的にリタイアにされちゃったんだ。このときの審判員は大学のフランス語の先生みたいな人で、自動車やレースのことはわかっていない人だったんだけど、僕がコース外で停車した、コースじゃないところを走ったって言って失格にしちゃったんだ。

でも、同じレースで高橋国光選手(*2)がコースをショートカットしたのに、ペナルティになっていないんだ。ファクトリーはよくてプライベートはダメなんておかしいってすぐにメディアを集めて記者会見したんだけど、裁定は覆らなくて、それでこの世界からは離れることにしたんだ。ワークスが圧倒的な世界じゃやってられないってね」

レースを中心に据えた生活に、これだけフォーカスした理由はなんだったのだろう?

とにかく車が好きで仕方ない

「クルマをいじるのが好きだったんだよね(笑)。分解するのが。自分で壊して自分でなおして。とにかく車に触っているのが好きだったんだ。オートバイにも子供のころは乗っていたけど、競技には出てなかった。北海道にはなかったんだよね当時、オートバイのレース自体が。

でも、興味はあった。モーターサイクリストって雑誌に浅間火山レース(1955年)の記事が出ていてね。それを読んだら、北野元というプライベーターが250ccでかな? ワークスに勝ったという記事が出ていて、すごい人がいるな、と憧れたのをよく覚えている。高校生の頃だったね。

父はその頃、石鹸工場をやっていて、結構羽振りは良かったので、頼んでオートバイを買ってもらったんだ。まだまだ終戦から間もない時代で石鹸が足りない時代で、工業用石鹸、家庭用石鹸、シャンプーとか、そうしたものが飛ぶように売れた時代だったんだよね。

買ってもらったオートバイは札幌のバイク屋に一台だけあったホンダC92。大好きすぎて、高校時代には自分で木で模型を作ったくらい。でも、貸した人が札樽国道で事故を起こしてしまって、ダメになっちゃったんだ。

そしたら親父がそんなのは危ないって言ってね。新しく別のバイクを買ってもらったんだ」

菅原氏手作りのバイクの模型

見せてくれた模型は、高校生が身近な材料で作ったとは思えないくらい完成度の高いものだった。木を削り、下敷きを伸ばし、ニューム管を開いて伸ばしてパーツを製作したのだそうだ。菅原の乗り物への深い愛情は、この頃からすでに始まっていたのだ。

遠い未来が訪れるまで、雑誌で読んで憧れた浅間に行くことはなかったが、しかしその浅間を走っていた生沢徹らとともにチーム子連れ狼を作ることになる。

「ある日、東京・代官山の寿司屋で仲の良かったレース仲間の生沢徹(*3)と食事をしているときに、もう子供もできたし、レースはやめようと思う。一緒にバイクを買ってモトクロスをやらないか、という話になって”チーム子連れ狼”って名前にしよう、ってなったんだ。

ちょうどホンダが2ストロークエンジンのモトクロッサー(*4)を初めて出すということで、それを買ってモトクロスに出ようと。レースに出るようになっても、万年ノービスの白ゼッケンだったんだけど、気がついたら生沢は黄色ゼッケンのジュニアクラスに昇格してて。成績はかわらないのになんでだろうと思ったら、以前ロードレースやってたから特別昇格だと(笑)。

そんな時に、きっかけになった寿司屋が、子連れ狼の原作者(小池一夫)の家に出前に行くって聞いて、ロゴ使っていいか聞いて来てくれって頼んだら、気前よくいいよって言われて。漫画のロゴそのままでチームアパレルも作ることができたんですよ」

富士山頂への登頂を目指す

「同じ頃、金融の仕事はちょっと嫌いになってしまって、今から50年前に日本レーシングマネージメントという会社を作ったんだ。日本のトップ選手たちにスポンサーを手配して海外のレースに参戦させたりするような会社だね。スポンサーからの資金を少し分けてもらい、そのかわりに報告書を書くなどの付帯業務を提供するという会社でね。この仕事は素晴らしかった。当時、生沢さんがドイツ・ニュルブルクリンクというサーキットで行われた世界的なレースで優勝するのを間近で見たり、イタリアのモンツァにあるサーキットで、ホンダのファクトリーのピットからホンダのFIが優勝すするのに立ち会ったりとかね。素晴らしい経験だったと思う。まだ日本にランボルギーニが入る前に工場見学しに行って、発売前のミウラが作られているのを見たりね。このとき、ラッキーにも工場の裏のテストコースで試乗させてもらったので、日本人として初めてランボルギーニに乗るという名誉にも預かった」

すでに中年に入っていた菅原は、仲間の生沢らとともに、新しい遊びを始める。それがオートバイだった。今では考えられないことだが、その夢は、富士山の山頂まで、オートバイで一切足を着かずに登り切る、という目標だ。オートバイは発売されたばかりのホンダ・エルシノア250。

標高の高い富士山頂にオートバイで登るにはライディングテクニックはもちろんだが、高度に合わせたセッティングを導き出せるセッティングノウハウも必要だ。この登頂を成功させた菅原は自信を得て、パリダカールラリーへ参戦しようと思い立つ。

画像提供 日野自動車(株) 

「仲間を集めて、1人200万円づつ出し合って準備を始めたんだ。僕はホンダに行ってバイクを調達したりね。当時ホンダでは、シリル・ヌブーがパリダカのトップ選手だったんだけども、写真がなくてね。バイクを調達するかわりにヌブーの写真を撮ってくる、という条件でスポンサーを得たんだ。

 長年のパリダカ参戦で2つのギネス記録を持つ菅原  画像提供 日野自動車(株) 

でも、撮影できるチャンスなんて限られているよね。カメラをしまっておいたら、出すまでにそのチャンスが消えてしまうかもしれない。なので、胸の前にぶら下げる特製のカメラバッグを作って、いつでもすぐに撮影できるようにして走ったんだ。後ろにはスペアタイヤを積んでね」

(後編に続く)

*1(日本のモータースポーツ草創期を代表するトップドライバー)
*2(日本を代表するトップドライバーの1人)
*3(オートバイ、クルマともにトップの存在)
*4(オフロードレース用の競技専用オートバイ)

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